小倉北区小文字・山門・寿山地区
2005年6月21日開設
1 富野保塁 8 福聚寺墓地
2 五百羅漢 9 小笠原初代藩主墓
3 メモリアルクロス 10 江戸墓
4 長清寺 11 円通寺   
5 仏母寺 12 浄福寺跡
6 宗玄寺 13 小文字山
7 広寿山福聚寺 14 大畠遺跡
1 富野保塁(とみのほうるい)
  関門海峡を通過する敵艦や、小倉からの上陸を想定して造られた下関要塞の一つで、手向(田向)砲台建設に着手してから約半年後の明治21年2月に起工し、1年後の明治22年2月に竣工。 装備は、 小倉からの対上陸戦に備えて12cmカノン砲を8門、手向山及び笹尾砲台の側防として15cm臼砲を8門を設置していましたが、明治末期に廃止になりました。当時の要塞遺構は、軽費老人ホーム望玄荘の南側に倉庫や階段等が、藪の中に残っています。
 倉庫群は、コの字型に山頂を穿って造られています。北側に1号倉庫、西側に2号から6号までの5つの倉庫が一列に並び、南側に7号と小規模の8号倉庫が設置されています。形は、小倉南区の高蔵保塁とほぼ同一ですが、各入口上部の換気口に特徴が見られます。しかし、安全対策のため、入口及び窓は全部ブロックで塞がれているため、内部の形状は不明です。
富野堡塁碑
北側から1号倉庫 2号 3号 4号
5号 6号 7号 南端の小規模な8号
入口上部の装飾を兼ねた換気口 雨樋の受口 倉庫前広場から上部への階段 最北端に位置する9号倉庫
2 五百羅漢
 小倉京町の商人新屋幸助は、広寿山福聚寺境内の北谷、狐岩の場所に五百羅漢の建立を藩に願い出て、天明5年(1785年)許可がおり同年9月に石仏群の一部が完成しました。その後、子供の利昌が父の遺志をつぎ、寛政4年(1792年)に完成させ、広寿山福聚寺11代住職千巌和尚が開眼の法要を行ったと云われています。大半の像が、首を折られていますが、これは幕末に長州兵によって首をおとされたとか、また明治初めの廃仏毀釈によって生じたとか言われていますが、定かではありません。

草にうずもれた広寿山福聚寺
12代住職穆孫和尚の墓
3 メモリアルクロス
 昭和25年、朝鮮戦争で戦死した国連軍将兵の霊を慰めるため、米軍小倉師団司令官ラックス大佐等によって建設された高さ20bの鉄骨十字架で朝半島に向いています。そして昭和27年、日本側に引渡されため福岡県と小倉、門司、若松、八幡、戸畑の五市が共同で改装を行っています。
4 長清寺
黄檗宗

由緒  元禄13年(1700年)、広寿山福聚寺2世法雲和尚が開基し、藩主より「長清寺」の号を授けられました。また、小笠原長清公の位牌「長清寺殿浄誉会大居士」を安置し、寺領二十石を与えられています。現在の長清寺は、広寿山福聚寺5代梅州和尚が開基した玉泉庵の場所に、昭和4年同庵と合併して建設されています。
境内に、三階菱の入った石燈篭を持つ五輪塔が一基祀られていました。
5 禅宗仏母寺
黄檗宗

由緒  寛延元年(1748年)、広寿山福聚寺7世空極和尚が開基、もとは仏母庵といっていました。


 入口に、長州征伐の無縁塔が祀られていました。
6 宗玄寺
曹洞宗

由緒 慶長19年(1614年)小笠原藩初代藩主忠真(ただざね)の父秀政(ひでまさ)は、信州松本城外に臨済寺を建てましたが、翌年大阪夏の陣で戦死、忠真はその法号にちなみ宗玄寺と改称しました。その後寺は、忠真の転封とともに元和3年明石、寛永9年小倉城下馬借の細川幽斎を祀っていた泰勝院の跡へ移りました。慶応2年、幕府の長州征討の時、幕府軍の陣営となり兵火で堂宇は焼失してしまいました。昭和51年、現在地へ移転しました。
右の写真は、小倉藩家老の墓。

左の写真は、歴代住職の墓。
右の写真は、六地蔵。

左の写真は、宝篋印塔。
7 広寿山福聚寺
黄檗宗

由緒 小笠原藩初代藩主忠真は、寛文5年(1665年)小笠原家の菩提寺として創建し、即非和尚が開基する。即非は、名を如一と言い、中国明の福州出身で、黄檗宗の名僧隠元和尚の高弟で、藩主忠真の懇請によって本寺を開くこととなりました。寺は、始め足立山麓不老庵の跡地に建てられましたが、二代藩主忠雄は近くの現在地へ改め、延宝7年(1679年)堂宇を大きく増築した。天明9年(1789年)正月、禅堂より出火、仏殿を始め全焼したため、寛政6年(1794年)から享和2年(1802年)まで13年をかけて再建されました。
 慶応2年(1866年)、長州征討の時、幕府軍肥後藩の本陣となっていましたが、小倉藩が城を焼いて香春へ退くとき、寺も焼くようにと指示があり、住職などは火をつけて田川郡金田村へ避難しました。しかし、幸いにも仏殿、不二門、収蔵庫、鐘つき堂などは焼けずに残りました。 そのため、一時期長州軍の本陣となり、山県狂介などが滞在したと云われています。


総門(黒門)は、境内に入る最初の門で黒い色をしていることから黒門とも呼ばれています。正面の扁額「第一関」は、初代住職即非和尚が書かれたものです。


不二門は、総門に次ぐ第二の門で享和2年に再建されたものです。表の寺額(廣壽名山福聚禅寺」と、内側の扁額「不二門」は即非和尚の書になるものです。
総門(黒門)
不二門の表
不二門の内側
三階菱の透かしが入った石灯篭で、安政2年(1855年)に造られたものです。
仏殿(本殿)は、享和2年に再建されたもので、扁額「吉祥寶殿」は即非和尚の書によるものです。
右の写真は、収蔵庫で黄檗文化と呼ばれる美術品や小笠原藩主関係の資料が保存されていましたが、現在は市の自然史・歴史博物館に保管されています。


左の写真は、鐘鼓楼で享和年間に再建されたものですが、今は使われておりません。創建当時の梵鐘は、第二次世界大戦で供出されたため、昭和26年に新しく造りましたが、音色が悪かった為、昭和57年に造り直しました。昭和26年製作の鐘は収蔵庫前に置かれています。
開山即非和尚の墓

明国萬暦44年(1616年)、中国福建省福州府に生まれ永暦5年(1657年)39歳で日本に渡り、長崎の聖寿山崇福寺に入る。寛文5年(1665)広寿山を開山、寛文7年(1667年)小笠原忠真逝去により、退院して長崎の崇福寺に戻りました。寛文11年、長崎で逝去、年齢は57歳でした。弟子で2世の法雲和尚が遺骨を背負って帰り、墓を建て葬ったのがこの墓です。
8 広寿山墓地
島村志津摩の墓

 島村志津摩は、天保四年(1833年)小倉に生まれ、10歳で千二百石の家を相続、20歳で家老となる。財政逼迫の時期で、産業進行策を次々に打ち出すが、大した利益も上げられず安政6年(1859年)家老の職を解かれました。慶応2年(1866年)長州軍が田野浦に上陸、島村の隊も戦うが、志津摩は体調を崩し長浜に居た。小倉藩は、8月1日城を焼き香春に退くが、島村は金辺峠に陣を張ってゲリラ戦を展開した。慶応3年、企救郡を長州が管理することを条件に講和が成立し、島村は香春藩の家老(後に執政)となった。明治2年、藩庁が豊津に移るとともに執政を辞退、明治9年京都郡二崎(苅田町)で逝去、44歳でした。最初は、屋敷の裏山に葬られていましたが、後にこの墓地に改葬されました。
小倉炭坑殉職者慰霊塔

 昭和12年11月、宇部の古谷鉱業が小倉炭坑を設立、昭和13年2月大畠で坑道掘進に着手、同年5月初めて出炭する。次第に出炭量が増加、戦後しばらくが最盛期でしたが、落盤事故や出水事故があり殉職者を出した為、その慰霊の為、昭和23年に建てられたものです。
蓮門教島村光津子の墓
 
 明治時代に小倉を本部とした新興宗教「蓮門教」の教祖の墓です。
 島村光津子は、 天保 2年(1831年)長門国に生まれ、弘化4年(1847年)小倉古船場町の商人と結婚、明治初年大病を患い小倉藩士柳田素人の祈祷を受けたらたちまち治癒したことから信仰生活に入る。明治15年(1882年) 東京に進出し、「神道蓮門教」を創設する。一時は、信者数100万人を擁していたが、呪術的治病のためしばしば批判を受け、邪教として既成宗教や新聞などから集中攻撃 を受け衰退し、大正初期には教会の土地も処分している。その後、昭和36年には後継者が亡くなり姿を消した。
9 初代藩主小笠原忠真の墓
 初代藩主小笠原忠真は、元和元年(1615年)大阪夏の陣で父と兄を失い、自らも重傷をおったが一命を取りとめ松本八万石の藩主となる。元和3年(1617年)には、播磨国十万石の藩主となり明石に城を築く。寛永9年(1623年)小倉に転封となる。忠真は、寛文7年(1667年)小倉城内で逝去、72歳でした。遺骸は、城より出棺し家法によって、馬借の開善寺に入り葬式を行った後、その日のうちに現在地へ埋葬された。寛文9年、三回忌に法雲和尚が書いた碑文を刻んだ墓碑を建て、墓前に一族や家臣が献灯した燈籠が並んでいます。
 忠真の墓の下方に、継室で、二代藩主忠雄の生母「永貞院」の墓があります。
 小笠原藩では、小倉で逝去した藩主だけが小倉に墓を建立しました。(初代、二代忠雄、八代忠嘉、九代忠幹の四人です。)
※この写真は、20年前に撮影した写真です

小笠原忠真の墓

永貞院の墓
10 江戸墓
詳細不明

 江戸時代の墓が、集積されています。
11 円通寺と杉田久女の碑
黄檗宗

由緒 初代藩主小笠原忠真は、万治3年(1660年)に馬借開善寺近くに円通庵を建て、後に2世広寿山住職となる法雲を23歳で住職にした。寛文4年(1664年)、法雲は即非和尚の弟子となり広寿山を建築する為、現在の本堂の場所に庵を建て円通庵と名付けた。延宝3年(1675年)、広寿山本堂を移すに当たり、円通庵は藩主忠雄の別荘「望海楼」に移転した。戦後、廃寺同然だった庵を昭和22年、林文照和尚が円通寺として再建した。
右の写真は、杉田久女の句碑。
 広寿山25代住職林隆照和尚は、大正末から昭和初めに活躍した女流俳人杉田久女と親交があり、度々寺を訪れた久女の良き理解者であった。円通寺15代住職林文照和尚は、昭和54年父林隆照と親交の厚かった久女の句碑を境内に建立した。

      三山の
         高嶺つたひや
                紅葉狩

左の写真は、本堂屋根の三階菱入り瓦。
12 浄福庵跡の墓地
 広寿山の末寺の一つ浄福庵は、円通寺の裏にあったが、今は広寿山8代・14代・19代住職の墓のみが残っています。
13 小文字山
 小文字山は標高366mで、8月13日の夜山頂で90分に渡り、「小」の火文字が燃やされる小文字焼きで知られて
います。小文字山へは、山麓の小文字山登山口から約30分で登れます。

14 大畠(おおばたけ)遺跡
 1992年から1993年にかけて発掘調査が行われ、台地上から縄文時代の土坑、古墳時代の竪穴住居が9棟、古墳が14基、また江戸時代の墓が51基等が発見されました。
 この中で、墳丘の規模が大きく複室構造の石室をしている1号墳が道路脇に復元移転しています。この古墳は、6世紀末頃に造られたもので、鉄の刀や須恵器などが出土しています。
 右の写真は、発掘調査中の遺跡で、中央は壁や天井の石がなくなっている古墳で、左の写真は調査中の1号墳遠景写真です。
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代・教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市
足立山麓文化資源基礎調査報告書 平成8年3月発行 北九州市
足立山麓の史跡を探る 2004年3月吉日発行 足立山麓文化村
大畠遺跡 1997年3月31日発行 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室