小倉北区到津地区
2005年11月25日開設
長崎街道(一部推定)  大蔵線(一部推定) ■■小倉裏線(一部推定)  
1到津の森公園 10水かけ地蔵
2到津球場跡 11大満寺
3庚申供養塔 12法輪寺
4到津地蔵堂 13本就寺 
5到津八幡神社 14円応寺 
6瑞松寺 15清水寺
7お堂  
8引地山城    
9街角の石  
地域の歴史
1 町の変遷
  明治20年:到津村、西原村、金田村、菜園場村、田町村、日明村の6村が合併して板櫃町となる。
  大正11年:槻田村が板櫃町に合併。
  大正14年:板櫃町が小倉市に合併、その時、旧槻田村は八幡市と合併する。
2 区画整理事業
  到津地区:昭和7年着手
  下村到津地区:昭和10年着手
  これらの事業によって、道路や町の整備はされましたが、長崎街道の一部等が消滅してしまいました。

到津の地名由来
  神功皇后が、新羅渡航から帰還の時、この地に船を着けたことから到津となったと云われています。
1 到津の森公園内の史跡
 到津の森公園は、西鉄が昭和7年7月電車利用を促進する為、遊園地を開園したのが初まりで、翌年動物園が開園、多くの市民に親しまれていましたが、利用者の減少等に伴い平成12年5月31日閉園。しかし、多くの市民の存続署名によって、北九州市に譲渡され、その後再整備が行われ、平成14年4月13日「到津の森公園」として、開園しました。



石坊さま

 園内の一角に石坊さまと言われている石が祠の中に大切に祀られています。この石は、200年以上の昔からこの地にあって、毎年盆には供養の盆踊りを村人が行っていた云われています 。また、「さわればたたる」と云われており、粗雑に扱い罰があたったという伝説が残っています。

吉祥寺の墓

 もともと、この地には小倉藩主の祈願寺「吉祥寺」があり、平成12年の閉園までは数基の墓が残っていましたが、再整備の折、他所に移転されました。
吉祥寺の墓
石坊さま
2 小倉到津球場跡
 
 大正12年(1923年)、現在の上到津3丁目JR宿舎地に小倉到津球場が開設されました。当時は、九州野球のメッカとして、製門戦等が行われるなどして、ここから数多くのプロ選手が生まれました。そして、昭和9年11月26日、日米親善試合が行われ、初めて大リーグ選抜チームとして日本を訪れたベーブルースは、7回裏右翼観覧席に予告ホームランを打ち、ファンを大いに魅了しました。
 球場の規模 右翼 125m
          左翼  85m
3 庚申供養塔
 板櫃川のほとりに、寛政7年(1795年)に建造された庚申供養塔が、現在も大切に祀られています。
4 到津地蔵堂と孝子碑
 二市一郡新四国霊場の第3番前札所となっている御堂で、本尊は地蔵菩薩です。たたずまいは、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのように背景の木々とマッチしています。なお、由緒や云われは、不詳です。
 
そして、道路を挟んで孝子弥吉翁碑があります。
5 到津八幡神社
祭神 息長帯比売命(神功皇后)
    品蛇和気命(応神天皇)
    市寸嶋比売命(宗像三女神)
    多紀理毘売命(宗像三女神)
    多岐都比売命(宗像三女神)
    豊日別命(豊前・豊後の地主神)
由緒 神功皇后が、新羅渡航から帰還の時、宇美の里で応神天皇を産み、そして長門の豊浦宮への途中、この地に船を着けました。後に、祠を建て皇后の和魂を祀ったのが社の起源といわれています。また、神功皇后が、この前に流れる川の水を汲み産湯に使ったことから、人々は安産を願うようになったと云われています。現在、この川は板櫃川と言われていますが、鳥居付近だけ「産川」と言われていました。
 文治4年(1188年)、宇佐八幡大神を合祀し、神主は宇佐八幡宮の宮司の支族が勤めることとなった。 永禄4年(1561年)、大友宗麟が宇佐八幡宮を攻め全て焼き払ったため、宇佐八幡宮の神官らは神輿を守護して、この到津八幡宮に遷座することとなりました。そして、天正11年(1583年)までの23年間、この地に留まっていました。また、この地も戦乱に見舞われ、到津八幡宮も荒廃し宝器古文書等も悉く紛失してしまいました。
 慶長5年(1600年)、豊前国城主となった細川忠興は、本殿を始め諸殿を再建するとともに、小倉城の産土神として祀りました。その後、寛永9年(1632年)小倉城主となった小笠原忠真も産土神として祀りました。
常夜灯

 嘉永5年(1853年)、企救郡(小倉北区・小倉南区・門司区・八幡東区の一部)の各庄屋が大干ばつ時の雨乞いの御礼のため、灯明田とともに奉納したもので、昭和初期まで菜種油を燃料に火を灯していました。その後昭和15年までは、電燈に変わり、第二次大戦にて暫く中止となっていましたが、平成7年、実に54年振りに復活しました。
稲荷神社
 この稲荷神社は、一つの社殿に二つの神社を祀っています。
[勘定稲荷神社] 
 元禄15年(1702年)、小笠原藩2代藩主忠雄は、城内勘定所の守護神として同所敷地内に建立。宝暦年間(1760年代)、到津八幡宮の本殿内に遷座、昭和5年2月、本殿から別に稲荷神社を建立し現在にいたる。
[錦春稲荷神社]
 元禄15年、水戸家江戸屋敷内後楽園の錦春門内の台地に、兜を埋めて稲荷神社を建立したのが始まり。大正12年、関東大震災の際、東京の殆どが焼失したが、稲荷神社だけ延焼を免れました。その後、神社敷地は東京砲兵工廠となり、昭和8年には小倉へ移転。移転に伴い神社も、鳥居等も含めて小倉工廠内(現在の中央図書館北側の森)に遷座、終戦後の昭和20年9月勘定稲荷神社に合祀されました。

反橋

 水戸家江戸屋敷内の後楽園の池に架かっていた石橋で、錦春稲荷神社と共に小倉に移されたものです。



かっぱ明神

 小倉南区の菅生の滝付近に祀られていたもので、水を司る神様として崇敬されています。

反橋

かっぱ明神
鳥居

 文化2年(1805年)と寛政9年(1797年)に建造された鳥居があります。2基とも、東京砲兵工廠から移転されたものとも云われています。
狛犬

 荒生田村在住で、天保9年(1838年)生まれの生田氏夫妻から寄進された狛犬。このことから、現在の八幡東区荒生田地区は、到津八幡宮の氏子の範囲であったことが伺えられます。


猿田彦大神

 文化8年(1811年)に建造されたものです。
土地区画整理竣工記念碑

 八幡宮参道の階段より、西側に到津八幡公園の石碑と一緒に、昭和10年竣工の到津区画整理竣工記念碑があります。


合併記念碑

 本殿横の山中に、大正14年4月27日、板櫃町が小倉市に合併したことを記念する石碑があります。

土地区画整理竣工記念碑

合併記念碑
6 瑞松寺と五輪塔
曹洞宗
由緒 創建は、文明年間( 1469〜1487年)と云われ、寛永16年(1639年)寿岳が再建し、明治時代に篠崎村から現在地へ移転しました。

 境内に2基の一石五輪塔があります。
7 お堂と下到津橋柱
お堂

本尊 釈迦如来
二市一郡新四国霊場第三番奥の院下到津釈迦堂、

由緒 不明


下到津橋柱

 下到津
橋の架け替えに伴い、大正十四年竣工の旧橋柱がお堂の前に保存されています。
8 引地山城と五輪塔

 「企救郡古城址取調帳」によると引地山城は、天文の頃、清末駿河守公朝、その後同左馬助が城主で、天正年中宇佐大宮司公達が在城したと記載されています。
 また、城の麓には、五輪塔や宝篋印塔の一部が集約されています。

 遺構については、こちらのページをクリックして下さい。

9 祀られている石
 路地の一角に、無銘の石が4基、大切に祀られています。これは、何を意味しているのでしょうか。
10 水かけ地蔵
 旧長崎街道の脇に泉があり、そこに地蔵尊が祀られています。泉は、この水を神功皇后が飲まれたことから「皇后水」、また天平12年(740年)板櫃川の合戦時、聖武天皇により守護仏がこに安置されたことから「観音霊水」とも云われています。さらに、弘法太師が巡国のときに、飲まれたことから「弘法の水」と云われています。このように、この泉は多くの旅人の憩いの水とされていたと云われています。また、地蔵は水かけ地蔵として多くの人々に親しまれています。
 そして、その脇に長崎街道碑が建立されています。
11 大満寺
曹洞宗
本尊 十一面観音(塩買観音)
由緒 天正年間(1580年頃)、企救郡古川村(現在の小倉南区徳吉)に創建されましたが、元和年間(1620年頃)火災に遭い小倉城内魚町へ移転しました。そして、昭和28年現在地へ再度移転しました。
 本尊は、かつては住職一代に一度の御開帳という秘仏で、行基の作とも云われ天正年間に火災にも本尊のみが焼け残ったと云われています。また、本尊は、「塩買観音」とも言われています。ある年、雪が連日降り積もるなか、塩が無くなり調理が出来ないでいると、商人が塩を担いできました。寺では、不思議に思い、商人に尋ねると、昨日僧が来て「小倉城下の大満寺の僧だが、明日、塩がいるので届けてほしい。」といって代金を置いていったと言う。このことから、ご本尊が行ってくれたのだろうということで、塩買観音と呼ぶようになったそうです。
12 法輪寺
浄土真宗本願寺派

由緒 開基の仙学は、永照寺2代了信の嫡男でしたが、故あって永照寺を継がず永禄年間(1558〜1570年)に、この寺を起こしたと云われています。慶長12年(1607年)7月、2代専教のとき本願寺から長福寺の寺号を許可されました。享保元年(1716年)、8代将軍吉宗の子が長福と名付けられたので、藩主の命によって寺名を法輪寺と改めました。昭和26年、米町1丁目2番から現在地へ移転しました。

 境内の墓所には、江戸時代の墓もあり、その中には、珍しい形の墓石もあります。
宝暦9年( 1759年)

元禄9年(1696年)
13 本就寺
日蓮宗

由緒 天正年間(1580年頃)には、既に紫川の西岸(現在のリバーウォークの場所)にありました。そして天正15年(1587年)毛利勝信が小倉城主になった時、この寺を菩提寺としました。その後、小倉城主となった細川忠興は、慶長7年(1602年)小倉城の二の丸を建設するにあたり、この寺を米町へ移転させました。昭和19年、戦時中の強制疎開により現在地へ移転しました。
 寺には、豊臣秀吉が食事をしたという「太閤膳」と、秀吉の東帯姿の画像が大切に保管されています。秀吉は、文禄元年(1592年)、関門海峡を航行中に座礁、難を逃れた秀吉は小倉に上陸しこの「太閤膳」で食事をしたので、それを拝領したと云われています。
14 円応寺
真宗大谷派

由緒 天正12年(1584年)、豊前国仲津圓應寺に住んでいた開基真誉見道上人は、小倉に来て小倉圓應寺を建立した。かつては、広大な境内を持つ大寺で、寺の前の通りは「円応寺筋」と呼ばれていました。昭和28年、堺町1丁目1番から現在地へ移転しました。
香月牛山と香月陸軍大尉の墓
香月牛山の墓
香月牛山は、小倉藩きっての名医で、出身は筑前国香月、名は則真、「牛山」はその号です。小さい時は筑前国の貝原益軒に儒学と博物学を学び、成長してからは鶴原玄益に医学を学びました。初めは、中津藩に14年間程仕え、その後京都に17年間遊学しました。その間、多くの医者が治せなかった大覚親王(霊元天皇の第九皇子)をの病気を治して一躍有名になりました。このことを聞いた小倉藩主忠雄は侍医として招へいしました。牛山は、医業に励むかたわら「夫人寿草」「小児必要記」等数多くの医学書を執筆し。元文5年(1740年)85歳の高齢で亡くなりました。なお、出身地の香月吉祥寺には、寿塔と埋骨墓があります。

故陸軍大尉香月則久の墓
 満州国とソ連・外蒙との間の国境紛争で、最大のものとなったノモンハン事件は、日本陸軍が経験した初めて本格的な近代戦で、昭和14年5月に始まった。この、戦闘で戦死した八幡東区大蔵出身の香月大尉の墓が、あります。
15 清水寺
新真言宗
由緒 創立は、大宝3年(703年)で聖武天皇の勅願所として、豊前国企救の御堂と呼ばれていました。当初は、現在地からから南の高所にあったと伝えています。
 慶長7年(1602年)小倉城の築城に際し、藩主細川忠興は、城の裏鬼門に当たる現在地に、寺院を建立し本尊観世音菩薩(千手観音菩薩)を移しました。また、藩の祈祷寺として寺禄150石を賜りました。寛永9年(1632年)入国した小笠原忠真も深く帰依し、本堂、弁才天堂等7堂を新築し祈願所としました。
 慶応2年(1866年)長州との戦い以後廃頽しましたが、明治45年本堂が再建されました。

現在の表参道

本堂
 この石垣は、慶長7年(1602年)藩主細川忠興が小倉城築城に用意した石の一部を使って築いたと云われています。まさに、雰囲気は城そのものです。
弁才天
 山麓脇にある池の中に、弁才天が祀られています。手前の鳥居には寛政五歳(1793年)と刻まれています。
経塚
 天保10年(1839年)に建立された「奉書写大乗妙典一部 浄土三部経一字一石」塔。
経塚
 文政3年(1820年)に建立された「大乗妙典六十六部一国一仏」塔。建立者は、「因州岩井郡浜大谷村 行者 源六」と刻まれており、現在の鳥取県から修験に来ていたことが分かります。
燈籠
 延宝7年(1679年)の、建立年が刻まれています。
燈籠
 享保17年(1732年)の、建立年が刻まれています。
燈籠
 文化2年(1805年)の、建立年が刻まれています。
旅賓の墓

 杉田久女の門下橋本多佳子の夫豊次郎が亡き母追善の為、大正12年、施主「某」と名を伏せ行路病死者の霊を合祀し建立したものです。
 墓の場所には、江戸時代には「天神社」があったと云われて意います。
方円斎直守一の碑

 直円之輔守一は、号を方円斎といい、武芸十六流の奥義を究め、天明2年(1782年)方円流を創始し、天保14年(1843年)に亡くなりました。天保15年、門弟によって、この碑が建立されました。
最中庵我山句碑
 小笠原藩士鎌田兵大夫の長男として、江戸屋敷で生まれた六左衛門は、医術で藩に仕えていました。文藻舎春猪(芭蕉の4代目の弟子)門家の俳人でした。
「こけさふなあぶない石の涼かな」
手水鉢
 宝暦7年(1757年)と刻まれています。
法華石書塔
 楢原秀近は、和歌、漢書に秀で書は棠陰(とういん)と号していました。文化8年(1811年)対馬に朝鮮使節来朝の折、幕府の正使小笠原忠固の命で、接待役にあたりました。この塔は、門人によって建立されました。
芭蕉塚

 芭蕉と刻まれているだけで、建立年等はなにもありません。  
参考文献等
北九州市史 近代・現代・教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
九州鐵道小誌-赤れんがで築かれた鉄道の話- 昭和51年12月10日発行 出口隆
小倉城下町調査報告書 平成9年3月発行 北九州市
小倉西地区歴史調査報告書 平成10年3月 北九州市