小倉北区中井浜・日明・菜園場地区
2005年4月4日開設
1 櫓山荘 8 不動明王堂
2 日明一本松塚古墳 9 菜園場窯跡
3 六地蔵 10 妙行寺跡
4 極楽橋 11 菜園場墓地   
5 日明浜処刑場跡 12 防空壕
6 首切り地蔵尊 13 板櫃川
7 愛宕神社 -
1 櫓山荘
 戸畑区との境で、かつ筑前と豊前の国境でもある境川に隣接する中原の櫓山(やぐらやま)には、小倉藩の堺鼻見張番所がありました。大正9年(1920年)、この番所跡の小さな丘に、大阪の実業家橋本豊次郎が、自ら設計し建てた「櫓山荘」と呼ばれた洋風3階建ての建物がありました。広い敷地には、テニスコートや回遊式の庭園、屋外ステージが建設され、現在でも丘の上等に残されて階段等から当時の面影をたどることが出来ます。
 また、夫人は、戦後の女流俳人の第一人者と言われる橋本多佳子で、大正11年3月この櫓山荘で開かれた虚子歓迎句会で高浜虚子が詠んだ「落椿投げて暖炉の火の上に」の一句に感動し、俳句に心ひかれることとなりました。多佳子は、この句会で、虚子門下の花形女流俳人の杉田久女と出会い、その後、久女の指導を受けて俳句を始めることになりました。
 昭和4年、橋本家は豊次郎の父の死去に伴い大阪の帝塚山に転居しましたが、昭和14年橋本家の手が離れるまでこの櫓山荘は別荘として使用され続けられました。その間、里見ク、久米正雄、宇野浩二など多くの著名人や文化人が櫓山荘を訪れ、小倉の文化サロンとなっていました。
 現在は、中井北公園と番所跡緑地保全地区として開放され、平成15年10月には櫓山荘と二人の女流俳人を記念して、句碑が建てられています。
 橋本多佳子が、櫓山荘を詠んだ句として
 「裏門の石段しづむ秋の潮」(昭和3年)
 「ひぐらしや絨毯青く山に住む」(昭和10年)
 「炉によみて夫の古椅子ゆるる椅子」(昭和14年)
が、知られています。              

橋本多佳子プロフィール
 明治32年東京生まれ。大正6年橋本豊次郎と結婚、大正9年小倉に移り住む。杉田久女に俳句の手ほどきを受け、「ホトトギス」に投句。昭和4年大阪に移り高浜虚子、山口誓子へ師事し、「馬酔木」同人となる。昭和23年より「天狼」に同人として参加。昭和25年「七曜」主宰となる。
昭和38年大阪にて逝去。


新築された頃の櫓山荘(大正9年頃)

建物があった場所を望む

上の写真の左側、丘へ登る階段の一部が残っています。

丘の上から南側に設けられた回遊式の階段など
2 日明一本松塚古墳
 日明小学校から西側の丘陵、道路下に石室があります。この古墳は、遺骸を納めた玄室と供物を置く副室からなる複室横穴式石室で、6世紀後半に造られたものです。外観は、道路横に墳丘の一部が残っている、推定直径15mの円墳と考えられています。
 また、玄室の奥壁は花崗岩の一枚石からなり、赤色顔料で、一点から四方に10本の放射状の線が描かれており、北九州市内で数少ない装飾古墳です。
 現在、この一基のみ残っていますが昔は、もっと多くの古墳がこの付近にありました。そして、昭和48年に、市の指定文化財に指定されており、実物大に復元された石室内部は、「いのちのたび
博物館」に展示されています。
3 一池妙蓮信女と六地蔵尊
 法名一池妙蓮信女は、日明で漁師の娘として生まれ、孝行者で日明小町といわれる美人でした。ある時、小倉藩の重臣に見染められ六人の子を産み平和に暮らしていましたが、正妻の知るところとなり、正妻は家の郎党を使い妙蓮をこの近くの楠木に縛りつけ、六人の子供たちを撲殺したという。妙蓮は、その様をみて発狂し近くの池に入水し命を絶ってしまいました。なお、この地は墓地への山道で、野辺送りの休息所であり、昭和3年頃殺された六人の子供の霊を供養するため、阿弥陀如来と六地蔵が土地の人々によって建立されました。
 妙蓮の墓は、漁村内にありましたが、無縁となり、墓石は民家の踏み石となっていました。その民家では不幸が続いていたため、原因を探していたところ墓石であることが判明し、昭和30年頃六地蔵があるこの地に祀られました。

享保5年(1720年)に亡くなった妙蓮の墓
4 極楽橋
 板櫃川の河口に架かるコンクリートの橋の名前は、「極楽橋」。この橋は、明治時代までは、「地獄橋」と呼ばれていました。それは、江戸時代、縄を打たれ裸馬に乗せられた罪人は、市中引廻しのあと、この橋を渡って干上村(現在の日明)の刑場で処刑されていたため、この橋を渡ることは死への道であったことに由来しています。
5 日明浜処刑諸霊塔
 江戸時代の刑場があったところで、当時は響灘に面する砂浜でした。現在は、この地区の共有の墓地となり、片隅にここで処刑された人々の霊を供養するため、供養塔が建てられています。
6 首切り地蔵尊と法界塔
 地蔵尊
 信仰心厚い平松の漁民は、文化年間(1804〜1818年)に起こった小笠原藩の白黒騒動で犠牲となった、儒者上原与一以下の処刑者を仏として巨大な地蔵尊を造り、天明7年(1787年)に建立された無縁仏法界塔の上に置き、今も供養し続けています。



 白黒騒動
 文化11年(1814年)11月、小笠原藩主6代目の忠固の権力欲で底をついた藩財政により、禄米も半減したため、藩主側近でもあった儒者上原与一をはじめ4名の家老と360人の家臣が隣藩の黒崎へ出奔した(黒組)ことに端を発した事件で、一旦は家老小笠原出雲(白組)の閉門ちっ居で解決し出奔決行した4家老ら反主流は実権を掌握した。しかし、この事件は幕府の知ることとなり、幕府から藩主忠固をはじめ4家老が処断され、今度は白組が復活し、出奔した黒組の首謀者とされた上原与一は、この刑場で火あぶりの刑に処せられた。
7 愛宕神社
祭神 迦具土神
由緒 小倉藩主細川忠興は、慶長7年(1602年)小倉城の築城にあたり、城下町を望む西側、不動を祀り不動山と言われていた小高い丘の上に愛宕神社を建立、それ以後この山は愛宕山と呼ばれるようになりました。その後、小笠原藩二代藩主忠雄は、延宝7年(1679年)愛宕山麓に妙行寺を建立。それ以降、愛宕神社は、寺の抱持の神社となりましたが、明治時代の神仏分離によって、明治3年到津八幡神社の末社となり妙行寺は廃寺となりました。
 また、参道の石段は、小笠原藩厩組の惣右衛門が老人や子供達でも参詣しやすくするため、天明8年(1788年)から文化9年(1812年)の25年間をかけて集めた浄財37両余りで造った131段の石段が基となっています。





 @参道入口脇にある井戸枠
  天保11年(1840年)の銘が刻まれています。

 A鳥居
  享和2年(1802年)と、安永9年(1780年)の銘が刻まれた二基の鳥居があります。

 B猿田彦
  安政4年(1857年)の銘が刻まれています。

文化9年に完成した石段

本殿

@参道入口脇にある井戸枠?

A鳥居

B猿田彦
8 不動明王堂
 愛宕神社境内に隣接して、不動明王堂があります。その境内には、経塚など古手の石造物がたくさん残っています。

 @石灯篭
  文化2年(1805年)の銘が刻まれています。

不動明王堂

@灯篭
 A法華書写塔
  文政2年(1819年)の銘が刻まれています。


 B供養灯明塔
  愛宕神社が建立された頃のものと言われています。

A法華書写塔

B供養灯明塔
 B供養灯明塔の笠部と基礎部
C経塚とD六地蔵

 経塚は、高さ約1mの六角形の石柱からなっており、側壁に「謹奉読誦法華妙典一千部、為玉室興公禪定門、干時元亀三年閏正月廿五日展供養成就者也」と刻まれている。このことから、元亀三年(1572年)に造られたものと思われる。
 なお、経塚の上には六角の石の六面に地蔵さんが浮き彫りに刻まれた六地蔵と笠石等が載せられていますが、それぞれ材質が全く違うことから後世に組合されたものと考えられます。なお、この六地蔵の類例は、木町の西安寺境内に安置されている六地蔵があります。

C経塚

D六地蔵
9 菜園場窯跡
  菜園場窯跡は、小倉藩主細川忠興が陶工尊楷(後の上野喜蔵)を招いて築いた「お楽しみ窯」と考えられています。
これまでの発掘調査によって、焚口と四つの焼成室からなる「登り窯」(全長16.6m)が発見されました。また、併せて茶碗や茶入れ、土瓶などいろいろな種類の焼き物が出土しています。
また、この菜園場窯は、福岡県の伝統的な焼き物である「上野焼」の源流とされ、日本の焼き物の歴史を探る貴重な資料です。
10 妙行寺跡
 小笠原藩初代藩主忠真は、慶安元年(1648年)、足立山山麓に東照宮の神殿を建立し、その傍らに妙行寺を建てた。寛文4年(1664年)、その地に広寿山福聚寺が建てられるため、城内の鍛冶町(現在正福寺のある場所)へ移転。その後、二代藩主忠雄は、延宝7年(1679年)愛宕山麓に移転させました。この寺には、三代将軍徳川家光を始め、家綱(四代)綱吉(五代)の位牌を祀り、後に東照宮百回忌法要も営まれたと言われています。
 また、この寺は天保9年(1838年)、火災により建物全て焼失しましたが、その後再建されました。しかし、明治維新により廃寺となっていましたが、最近の発掘調査で、礎石や三葉葵の瓦等が発見されています。
 なお、建物以外の寺の痕跡は、菜園場墓地と経塚にその面影を辿る事が出来ます。
@経塚「大乗妙典一石一字」
  明和7年(1770年)の銘が刻まれています。
 
@経塚
11 菜園場墓地
彦岳石川先生之墓

 小笠原藩4代藩主忠総は、天明8年(1788年)三の丸に藩校「思永館」を建て、初代学頭に石川彦岳を任命する。石川彦岳は、文化12年(1815年)に、享年70歳で亡くなりこの菜園場に墓が建てられました。
 「思永館」の「思永」という言葉は、中国の古典「書経」から引用されており、その意味は「思い永く」すなわち、眼前の名利にとらわれず、高い視点、広い視野で深く考えるということを表しています。
修斉先生之墓

 形屋修斉は、伊勢の出身で、染屋を業とする傍ら、書を志し大家となりましたが、文政5年10月2日に亡くなりました。
晦息布施先生之墓

 布施芳陳(晦息)は、藩の儒者で石川彦岳に学び文化7年(1810年)思永館助教授、天保15年(1844年)学頭助役となりました。その後、思永館を盛り立て学頭となりましたが、安政3年(1856年)享年70歳で亡くなりました。
12 防空壕
 愛宕神社参道脇に「防空壕」の碑があり、菜園場窯との間の山裾に防空壕が数箇所掘られていますが、現在は入口をブロックで塞がれています。
 碑には、第一町内会三組の銘が刻まれています。
13 付替えられた板櫃川
 二級である河川板櫃川は、八幡東区の田代地区を源流とし、河内貯水池を経て八幡東区、小倉北区の町なかを抜け、小倉北区を通過して日明の河口へと注いでいます。しかし、昭和の初期に下到津から河口付近までの間、大規模な付替え工事が行われています。愛宕橋が、昭和9年に完成していることから、ほぼその年までに新河川は完成したものと思われます。なお、旧河川は、現在の日豊本線沿いに流れていました。
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州市の文化財 平成2年3月発行 北九州市教育委員会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
小倉西地区歴史調査報告書 平成10年3月発行 北九州市
愛宕遺跡T 1985年3月31日発行 (財)北九州市教育文化事業団
北九州を歩く 1987年7月15日発行 海鳥社