小倉北区赤坂地区
2003年10月2日開設
1 宮本武蔵の碑 8 芭蕉の句碑
2 宮本伊織の墓 9 榊姫記念碑
3 佐々木小次郎碑 -
4 手向山砲台跡 -
5 地蔵尊水霊水 -
6 鳥越峠激戦地跡 -
7 延命寺 -
1 宮本武蔵の碑
 宮本武蔵の養子であった宮本伊織が、武蔵の業績を伝えるために1654年(承応3年)に建てたものです。武蔵は、数年間小倉に在住したと伝えられていますが、寛永17年(1640年)に、熊本に移り、正保2年(1645年)5月19日亡くなりました。右の写真は、碑に刻まれている死亡年月。
 碑は、高さ約4.5メートルの巨大な自然石で、藩主小笠原忠真から拝領した手向山に建てられており、舟島(巌流島)での佐々木小次郎との決闘をはじめ、有名な剣術家との勝負の事等が武蔵と交遊のあった熊本泰勝寺の春山和尚によって書かれた「天仰実相円満兵法逝去不絶」から始まる千百余字が刻まれています。
2 宮本伊織の墓
 手向山の麓にある宮本家の墓で、その中心部に伊織の墓があります。伊織は、慶長17年播州印南郡米堕村に生まれ、父は田原久光で武蔵の実兄と云われています。その後、武蔵の養子となり、寛永3年(1626年)小笠原忠真公に仕え、寛永8年には家老になっています。そして寛永15年(19638年)に起こった島原の乱には、士大将として活躍し、黒田忠之より刀を賜っています。延宝6年(1678年)、67歳で亡くなりました。

 忠厳紹徳居士覚霊
3 佐々木小次郎の碑
 武蔵と舟島(巌流島)で決闘をした佐々木小次郎を称え、昭和26年(1951年)、作家の村上元三氏が新聞連載小説「佐々木小次郎」の完成を期に寄贈したものです。碑には、元三の句「小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ」が刻まれています。
 毎年春には、巌流島の決闘にちなみ、神事や剣道大会、芸能大会など行い両剣聖を偲ぶ「武蔵・小次郎まつり」が行われています。
4 手向山砲台跡
 関門海峡を通過する敵艦を想定して造られた下関要塞の一つとして明治20年9月に着工し、明治21年9月に竣工。4号倉庫の上部にその竣工年等を刻んだ石製のプレートがはめ込まれています。大砲は、24p榴弾砲を12門(6砲座)設置していましたが、配備は明治22年3月であったと説明板に記載されていました。中央の4砲座は直線に、左右端の砲座は、やや内側に折れた「折り線砲」で各砲座は通路で連結されていました。また、砲台からは関門海峡が見えないので左右の端の砲座から100メートルの所に観測所を設置し、そこから位置や距離を確認し砲座に連絡して砲撃するようになっていましたが、一度も実戦で使用されることはありませんでした。戦前は、要塞地帯のため、立ち入り禁止でしたが、戦後は、手向山公園 として整備され市民の憩いの場となっています。

竣工年等を刻んだ石製のプレート

倉庫の換気口


第1号倉庫

右の写真のとおり、入口や窓は全てコンクリートブロックで塞がれており内部を見ることは出来ません。


第2号倉庫


第3号倉庫


第4号倉庫


第5号倉庫

倉庫の前は、埋め立てられており、わずかに入り口上部のプレートを見ることが出来ます。
砲座跡

 右3枚の写真は、砲座が設置されていた場所で、現在は埋立てられ公園となっています。
東側観測所跡

 観測所に付随する倉庫?、と開口部を塞ぐコンクリートブロックの割れめから窺えた内部の状況。右は、土砂で内部が埋没している観測所の跡です。わずかにコンクリートの土台部分が表面に現れています。
西側観測所跡

 観測所に付随する地下の倉庫?、開口部は、コンクリートブロックで塞がれています。観測所には、右側の階段から登り降りしていたようで、観測所はほぼ完全な円形をしています。
探照灯台座跡
 夜間、関門海峡を航行する敵艦を探すため、90cmの探照灯が設置されていました。台座煉瓦円形壁の上部には方向の目標となる古城山、大里、矢筈山等の地名が刻まれています。ここで発見された敵艦は、100メートル上方の観測所で、方位・距離等を計測し、砲台へ連絡し砲撃する仕組みとなっていましたが、一度も使用されることはありませんでした。
火力発電所跡

 
探照灯に電気を送る火力発電所の建物で、同じものが愛媛県今治市の小島砲台にあります。なお、以前は陸軍の火葬場だったと云われていたこともありました。
軍用道路の跡

 海側は攻撃に備えて、防塁上の土塁の間に道路が設置されています。なお、山側の道路は、攻撃を受けることが無い為、斜面をカットしてあるだけで、土塁は設置されていません。

土塁の断面

土塁の間に道路

山側の道路
建物の跡等

 倉庫前の広場にある半円形の石組み、何があったのでしょうか。
 山をカットして造った平坦部に建物の煉瓦基礎と、その建物への石段が残っています。

半円形の石組み

建物への石段

建物の煉瓦基礎
5 地蔵尊霊水(水掛地蔵)
 元々は、JR鹿児島本線沿いにあった江戸時代の小倉街道の一つ「門司往還」の際にありましたが、線路拡幅の為、現在地に移転したものです。弘法大師が諸国を行脚した際、法力で水を出したと云われ、以後この地を行き交う旅人は地蔵に水を掛け無事を祈るとともにしばしの休息をとっていました。
 正面には、石室が三つあり、卍が刻まれていました。
6 鳥越峠激戦地跡
 長州藩は、慶応2年(1866年)6月17日尊王倒幕を旗印として、門司区田野浦に上陸したことから、幕府軍との戦いが始まりました。幕府軍は、小倉藩を中心に肥後藩、柳川藩、久留米藩の兵およそ20,000人でしたが、実際に戦いに参加したのは小倉藩と肥後藩だけでした。一方、高杉晋作が指揮する長州藩は、奇兵隊、報国隊、長州藩などおよそ1,000人の兵力でしたが、最新のケーベル銃や、身軽な服装で次第に有利になり、幕府軍は大里から藤松へと退き、7月27日この鳥越峠付近でし烈な戦いが行われたと言われています。
7 延命寺
禅宗黄檗宗(元は天台宗)

由緒 延暦寺の末寺だった元の延命寺は、赤坂の山頂付近にありましたが、慶応2年(1866年)7月の長州との戦で寺は、灰燼に帰し廃寺となっていました。その後、明治元年、黄檗宗の田中芝玉和尚が、菜園場にあった妙行寺を引移し、小庵を建て隠遁の住居とし戦死した兵士の霊を弔っていました。和尚が亡くなった後、境内にあった古仏像を現在地に移し、東北山延命寺として復興されました。
 境内には、古い仏像等がたくさんあります。
8 芭蕉の句碑
 弘化4年(1847年)、小倉俳壇の松尾木父によって造られたもので、「古池や蛙飛び込む水の音」と芭蕉の代表作が刻まれた句碑が延命寺境内にあります。
9 榊姫記念碑
 榊姫は、平重盛の次男の娘で安徳帝に仕え平家一門と共に九州に落ちのびたが、病気になり長浜に住む海女の家にお世話になっていました。しかし、「私は、死後榊に宿り病に悩む人々を救う」と言い残して亡くなった為、長浜東の高浜に葬られました。大正2年、その地が小倉鉄道の石炭積出場となったため、敷地内の岩で記念碑をつくり、延命寺境内へ建設されました。 -
参考文献等
小倉市誌 復刻版 昭和50年7月10日発行 名著出版
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州市の建築 平成元年9月30日発行 北九州市