小倉北区藍島
2006年6月25日開設(2009.10.3更新)
1本村港 10瀬ヶ崎古墳群
2伍社神社 11地蔵堂
3遠見番所旗柱台 12御茶屋番所跡
4大江権現  
5貝島古墳群  

6竹浦遺跡・古墳群
 
7大浜  
8前浜古墳群    
9荒神社  
藍島の歴史
 元和4年(1618年)、長門国向津浦の海士であった両羽十右衛門が、小倉藩主細川忠興に領内での海士業を願い出て、その許可を得て当時無人島であった藍島へ入島し、漁場を開拓したのが始まりと云われています。それ以前の入島の記録は無く、またこれまでの調査では古墳時代の古墳や遺跡は発見されていますが、それ以前の縄文・弥生時代の遺跡や以降の古代・中世の遺跡も発見されていません。このことから、古墳時代の6世紀前半から後半にかけてのわずか数十年間、突如人々が住んだかと思うと、その後約千年間は無人のままであったことになります。
 古墳時代のこの付近を表したものに「日本書紀」があります。その中の、仲哀天皇八年の条に「春正月己卯朔壬午、幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫拔取五百枝賢木、以立九尋船之舳、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握劒、下枝掛八尺瓊、參迎于周芳沙麼之浦而獻魚鹽地。因以奏言、自穴門至向津野大濟爲東門、以名籠屋大濟爲西門。限沒利嶋・阿閉嶋爲御筥、割柴嶋爲御甑。」と仲哀天皇が神功皇后と共に、筑紫に向かわれたとき、崗県主(おかあがたぬし)の熊鰐が、五枝(いお)枝の賢木(さかき)をとって、船の舳先に立て、迎えに出て魚塩(なしお)の地を献上したとあります。この献上した魚塩(なしお)の地の中に沒利嶋、阿閉嶋、柴嶋と書かれているのが、現在の六連島、藍島、柴島になります。また、神功皇后紀秋九月の条に「皇后曰、必神心焉、則立大三輪社以奉刀矛矣、軍衆自聚、於是使吾瓮海人烏摩呂出於西海、令察有國耶、還曰、國不見也。又遣磯鹿海人名草而令睹、數日還之曰、西北有山、帯雲?、蓋有國乎、爰卜吉日、而臨發有日」と神功皇后が新羅出兵に際し、最初に吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)を使って、渡航させたが、「国は見えません」と失敗したため、磯鹿海人名草を派遣して宿願を果たしたとあります。この吾瓮海人烏摩呂こそ、吾瓮島に拠点を置く海人「烏摩呂」の意味でで、藍島の海人と推定されています。書紀の記載内容の真実は別にしても、藍島に多くの古墳が築かれている事実から見て、そこに書かれている地名、人名は何らかの真実を反映させているのではないでしょうか。また、6世紀の一時期にのみ人々が住んだのは、複雑な朝鮮半島情勢に対応した大和朝廷の政治的かつ軍事的必要性からの生じたものだったのでしょう。

藍島の古墳群一覧

 1 貝島古墳群 13基  7 前浜古墳群  2基
 2 千畳敷古墳群  2基  8 荒神社裏古墳  1基
 3 深江良古墳  1基  9 西が鼻古墳  1基
 4 竹浦古墳群 15基 10 採石場古墳群  2基
 5 寺屋敷古墳  1基 11 瀬ヶ崎古墳群  2基
 6 馬のてら古墳群  5基 合計 45基
1 藍島と本村港
 小倉北区の北方約12kmの響灘にありますが、小倉港から高速の渡船に乗れば約35分で着きます。この渡船も歴史が古く、大正2年藍島の上村慶蔵氏が個人で「藍島丸」(5頓)を建造し運航を始めたのがはじまりで、その後大正12年小倉市も定期船の必要性を認め、旅客船「勝山丸」(約10頓)を建造しました。しかし、運営はそれまで運航していた上村慶蔵氏、その後は漁協等に委託していましたが、昭和21年4月から小倉市の市営渡船として直営で運航するようになりました。その後、一時期は下関市彦島に寄港していましたが、小倉〜馬島〜藍島間を運航しています。なお、昭和27年6月完成の新造船から「小倉丸」と船名が変わりました。
小倉丸の船上から 本港の渡船場
2 伍社神社宮
祭神 底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命
    品蛇和気命 息長帯姫命
例祭 6月25日
由緒 不詳
 藍島は、もともと蒲生神社の氏子となっていますが、島神としては伍社宮を氏神と称しています。また、旧暦の6月25日には、蒲生神社の神官が来島し、神事を行っています。また、この日は霊の入った玉を御輿に入れ、青年団が担いで家々を回って厄払いをしています。
3 遠見番所旗柱台(とおみばんしょはたばしらだい)
 江戸時代の宝永2年(1705年)年から中国の密貿易船(唐船)がさかんに響灘に出没したため、幕府はその取締りを小倉、長州、福岡の三藩に命じました。小倉藩では、門司の葛葉と小倉の馬島、藍島に遠見番所を設置して警備にあたりました。この旗柱台は、享保6年(1721年)年4月に建てられたもので、密貿易船を発見すると紺地に白く染め抜いた三階菱紋入りの大旗を掲げ、中原の境鼻番所に急報したものです。なお、昭和44年5月1日に県の文化財(史跡)に指定されています。


 花崗岩製
 高さ 2m7cm 
4 大江権現
祭神 不詳
例祭 不詳
由緒 不詳


 島の北西、寄瀬田(よせんだ)の集落と港を見守るように祠が建てられています。
5 貝島古墳群
[貝島]
 貝島は、島の北側、約300m沖に浮かぶ長さ約100m、面積約4,000uの無人島ですが、大潮の日には、陸続きとなり歩いて渡ることが出来ます。また、島の一番高いところで9.8mと全体的に平坦な海岸段丘で、周囲は海触崖となっており、周囲の海岸は第三紀芦屋層の海触台となっています。この海岸の芦屋層には二枚貝を中心とする貝化石が無数に含まれており、「貝島」の名にふさわしい環境となっています。この島に、古墳があることは早くから注目されていましたが、昭和43年植物園を造成する計画が出された為、昭和44年に調査が行われました。この結果、13基の古墳が発見され、その内3基の発掘調査が行われました。なお、古墳以外の生活の跡やスペースが無いことから、藍島本島の墓域としてこの島が使用されていたことが分かりました。
 また、貝島を望む海岸の崖には、須恵器や土師器片が含まれていることから、この場所が生活の場であったことが伺えます。
海中に浮かぶ貝島 大潮で陸続きとなった貝島
貝島の全景 島の入口に祭られている水神様
貝島を望む海岸 左の海岸崖に現れている須恵器片
[1号墳] 
 島の北端部に位置し、直径3.75m、高さ0.6mの円墳で積み石塚状に石材が墳丘全体を覆っています。内部は、遺体を安置する玄室と祀りの場となる前庭部からなる単室の横穴式石室となっています。
 玄室は、全長2.4m、奥壁の幅1.46m、入口である玄門部の幅1.18mと羽子板型の平面プランとなっています。また、右壁よりにL字形に三枚の砂岩によって区画し一種の障壁を形成しています。この障壁と右壁の間の空間は遺体を安置した場所で、奥壁側に枕石が上下二層から二個出土しています。このことから、追葬が行われていたことが分かりました。さらに、障壁の左側からも一個の枕石が見つかっており、計3体の遺体が葬られていたことが分かりました。
 副葬品は、玄室から剣・刀子等の鉄製武具、銛頭・釣り針等の鉄製漁労具、土玉・耳環等の装身具、そして前庭部から大甕・杯等の須恵器が出土しました。なお、前庭部からの須恵器は、全て祀られた後に打ち割られていました。
墳丘 前庭部から玄室を望む
玄室の平面状況 玄室の左壁の状況
[11号墳]
 墳丘の土が無くなり、石室が路頭していますが未発掘の古墳です。外見から、玄室の天井石及び側壁は一枚岩で構成し、袖石の所で玄室を閉塞した長方形の平面プランを持つ単室の横穴式石室と考えられます。
[4号墳]
 発掘調査前に天井石が露出し、墳丘は既に破壊されていました。
 玄室は、全長2m、奥壁の幅1.2m、入口である玄門部の幅1.4mと梯型の平面プランとなっています。床面は10×20cm程度の玉石を敷き詰め、その上に3×3cm程度の礫で棺座を左右に壁に沿って二箇所造っていました。このことから、追葬が行われたと考えられます。
貝島古墳群の特徴
 石室は、玄室へ至る羨道部の形骸化、略式化が顕著で、また玄室の高さが極めて低いのが特徴で、築造年代は6世紀前半から後半と考えられています。
このことから、日本書紀に記載されている「吾瓮海人烏麻呂(あへのあまをまろ)」と関係した藍島の海人族の墓と推定されています。また、出土した豊富な銛頭・釣り針等の鉄製漁労具は、全国的も珍しく注目すべき遺物となっています。さらに、これらの海人族は、古代日本の外交や軍事に深く関わっていたと考えられています。         

2号墳

5号墳
6 竹浦遺跡と竹浦古墳群
 島の北東に位置する竹浦(たけんだ)湾の砂浜に須恵器等の土器片が散乱していることから、湾に面する平地に海人族の生活拠点があったことが伺えます。
 また、湾を望む半島の丘陵上には、この湾に居住した海人族の墓であろう古墳が、現在15基確認されています。なお、発掘調査などがされていないため、詳細は不明です。
竹浦古墳の1号墳
 直径約6mの円墳で、天井石が無くなっており横穴式石室が現れています。
 玄室は、現状で全長約3.1m、奥壁の幅0.92m、南北を機軸に築かれており南に入口が設けられています。
竹浦古墳の2号墳
 1号墳の東側に接して直径約6mの円墳で、墳丘の土が無くなっていますが、奥壁に接して幅2mの天井石が現れており横穴式石室です。
 玄室は、現状で全長約3.7m、奥壁の幅は、天井石から2m近くあると思われます。また、こちらも南北を機軸に築かれており南に入口が設けられています。
竹浦古墳の3号墳と4号墳
 2号墳の東側に接して幅2mの天井石が現れていますが、全容は不明です。
 さらに、東側に1号墳と同じ規模の4号墳がありますが、雑木に覆われ状況は不明です。
7 大浜と割石
 竹浦湾から海岸線を南下すると、沖縄の海にも負けない透明度の高い大浜湾があります。また、その海岸に面する砂岩には、時代は不明ですが石切のために穿たれた矢の跡が残っていました。
8 前浜古墳群

 大泊(おおどまり)を望む丘陵上に、2基の古墳が発見されています。2基共に、開墾によって墳丘部分が削られ石室が露出していますが、未発掘の古墳です。右の写真は、その内の1号墳で玄室入口の袖石と玄室の天井石です。この、ことから貝島古墳群と同様単室の横穴式石室と考えられています。

9 荒神社
祭神 住吉荒魂神
    素戔嗚尊
例祭 6月26日
由緒 不詳

 大泊集落の高台にあり、由緒は不明ですが昔は島外からもかなりの人が参拝に訪れていたと云われています。
 なお、境内に猿田彦の碑が今でも大切に祀られていました。建造年は、砂岩で造られている為風化が激しく読み取ることは出来ませんでした。
10 瀬ヶ崎古墳
 藍島の南端、瀬ヶ崎の丘陵上に2基の古墳が発見されています。墳丘の状況から、島内の他の古墳と同様に小円墳と考えられていますが、未発掘の為詳細は不明です。また、周辺には須恵器の破片が散在しています。

中央の高まりが古墳の墳丘

崖の断面に須恵器が
11 地蔵堂
 本村港を見守るように、地蔵堂と恵比須様が大切に祀られていました。毎年8月24日には、無縁仏を供養する為、地蔵堂の前で盆踊りが行われています。また、堂内の御影石で造られた地蔵様は、寛政13年(1801年)の製作年が刻まれています。その横には、一石五輪塔が祀られていました。
 

地蔵堂と恵比須様

一石五輪塔

地蔵様の製昨年銘
12 本港と御茶屋番所跡
 本村には、藩主が来島した折に休憩する場所として御茶屋番所が設置されていました。なお、日頃は遠見番所に勤務していた役人が使用していました。また、現在その番所跡横に古井戸が残っていますが、この井戸の水のみがお茶の水として使用されていたと云われています。
本港から大泊りへのメイン通り 茶屋番所横の古井戸
参考文献等
北九州市史 総論 先史・原史 昭和60年12月10日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
藍島 北九州市文化財報告書第二集 昭和43年3月31日発行 北九州市教育委員会
藍島資料 1980年4月15日発行 藍島類似公民館
貝島古墳群 1978年3月 北九州市